「瀬戸内海の島育ちにも関わらず…」

この「よみもの」を書いている原田千秋とは「何ものか」。
文末のプロフィールを書いていたら、子どもの頃を思い出しました。
今回はプロフィールの続きというか、自己紹介の続きとして書いてみました。
オリンピックで日本が高度経済成長に突入する前の、昭和の一コマです。

 

子どもの頃のこと①

『量り売り』
瀬戸内の島

100匁は375g。食パン1斤もおおよそそのくらいの重さ。
お使いを頼まれてよく買い物に行ったので、今でも「匁(もんめ)」「斤(きん)」「文(もん)」などの単位が懐かしい。
夜道のお使いを頼まれたとき、恐くて急ぎ足で帰っている途中に、買い物かごの中の瓶がひっくり返って中身がこぼれ、大泣きをしながら家に帰ったことがある。
せっかくのお使いが失敗に終わったことや、大切な瓶の中身が空になったことが悲しかった。家に着くと、事情を知った母が、「ああ、ごめんごめん。大変だったね。泣かなくてもいいよ。」と抱きしめてくれた。
いつもは厳しいはずの母の言葉が、いっそう私の泣きたい気持ちをかき立てた。

子どもの頃のこと②

『峠の煙突』
煙突
いつもは家の中で遊ぶ引っ込み思案な子どもだった。それでも、誘われて友達の家に遊びにいくこともあった。
友達の家は、峠を越えていかなければならない。
落ち葉を踏み踏み峠を越える途中に背の高い煙突がある。
見上げると今にも崩れ落ちてきそうな気がして恐かった。恐る恐る煙突の下を通り抜けるとき、走っても走っても煙突が倒れそうになりながらついてくる。
とうとう、泣き出しながら走って峠を下った。
そんな冒険を繰り返しているうちに、「煙突は倒れてなんか来ないのだ。」と自分に言い聞かせることができるようになった。
少しだけ大人になった気がした。

子どもの頃のこと③

『しな人形と鶏』

にわとり
家の庭に鶏小屋があって、朝、小屋の中にころがる卵は、畑の野菜と同じように我が家の食卓になくてはならないものだった。
小学校の学芸会は、そんな時代の、村民にとっても一大行事だった。小学校5年生の時、女子5人で「しな人形」を踊ることになった。衣装は、大人たちが工夫してつくる。
それぞれの家庭で、同じ生地をつかってそれぞれに縫うことになった。
さて、問題は「しな人形」が手にする大きな「しな扇」。
張り切っている親たちは、衣装以上に知恵を絞った。
「しな扇」には立派な鳥の羽がついている。
「どうする?」気のいい父親が言った。
「まかして。」
庭の鶏が一羽「しな扇」の犠牲になった。
父親の手でしめられた鶏の羽が、「しな扇」になり、私は一部始終は知らないようなふりをして、母親が張り切ってつくった「とりの内臓鍋」を食べた。

子どもの頃のこと③ つづき

『大人になって』
土鍋
大学を出て同級生と結婚した。結婚当初、二人で異境の地で暮らした。
料理は大して上手ではなかったけれど、専業主婦としてお弁当をつくったり、遊びに来た夫の友人に夕食を振る舞ったりした。
住んだのは雪深い地方だったので、冬は暖かい料理が何よりのご馳走だった。
長靴を履いて雪の坂道を上り、スーパーに行き、そこで懐かしいものを見つけた。大卒初任給で暮らす生活には、安くて栄養のあるかっこうの食材だった。喜んで買って帰って、張り切って調理した。
失敗しないように、料理の本を見ながら仕上げた。

帰宅した夫に「はい!何だと思う?」と鍋の蓋を取った。
「・・・・・」
無言が続く。
「食べたらわかる!美味しいよ!」小鉢によそって食べさせようとした。
一口食べた夫は「これ何?」
「とりの内臓!ほらここが卵になりかけのところ、ここがひも。ここが一番美味しいの!」自慢顔の私に夫は言った。
「よう食べん。」

そこから始まった初めての夫婦げんか。以来、とりの内臓料理は食卓に上がることはなくなった。
今でも、私は食べたい。けれども夫は言う。「それだけは勘弁して下さい。」

この記事を書いたひと

原田千秋
原田千秋山陽製紙株式会社 専務取締役
広島県呉市出身

広島大学教育学部卒業後、同じ大学のマンドリンクラブで同期だった原田六次郎氏(現:山陽製紙株式会社 代表取締役社長)と結婚。
中学校の教員を経て、1992年、経理等を担当するため山陽製紙の社員となる。
瀬戸内海の島育ちにも関わらず、水泳もできない運動音痴。
耳元に広がる波の音や、山が黄金色に染まるみかん畑などが心の原風景。
山陽製紙(株)の経営ビジョン「地球の財産を生かし、自然と共に生きる永続企業」もその様な原風景が背景にある。